(JPN) 公園は滑走路だった? 大阪市西区、歴史の常識を覆す5つの発見

西区の物語を辿ると、この街を貫く「韌性哲學(じんせいてつがく)」、すなわち強靭な回復力の思想が浮かび上がってくる。この街の偉大さは、古い建物をそのまま保存することにあるのではない。歴史の衝撃を受け止め、その記憶を内包しながら、常に新しい価値を創造し続ける驚くべき変容の力にあるのだ。

きょうまちぼり
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京町堀 Kyomachibori > 日本聖公會大阪主教座聖堂 The Kawaguchi Christ Church

🎧大阪市西区
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観光の歴史に関する魅力的な物語に注意深く耳を傾けてください

会話型放送では

大阪と聞けば、多くの人が食い倒れの街、商人の街といった活気あふれる姿を思い浮かべるだろう。その中心に位置する西区は、碁盤の目のように整然と区画された、現代的で秩序あるビジネス街という印象が強いかもしれない。しかし、その静謐な表情は、第二次世界大戦で区の約8割が灰燼に帰したという、壮絶な破壊からの再生の物語でもある。その徹底的に再構築された街並みの下には、一体どれほど劇的な歴史の地層が眠っているのだろうか。一見しただけでは決してわからない、この街の数奇な運命を物語る5つの物語を紐解いていこう。

薔薇園の下に眠る米軍滑走路:靱公園の数奇な運命

今日の靱(うつぼ)公園は、都心に広がる緑豊かなオアシスとして、市民に愛される憩いの場だ。しかし、この公園が持つ約700〜800メートル×150メートルという、都市公園としては異例の細長い形状こそ、その驚くべき過去を物語る最初のヒントである。ここは、都市の変容を象徴する、幾重にも重なった歴史の舞台なのだ。

この土地の物語は、江戸時代、大阪最大級の雑喉場(ざこば)魚市場として始まった。毎日威勢のいい魚屋たちの声が飛び交い、街の経済を動かす巨大なエンジンだったという。その活気ある呼び声を聞いた豊臣秀吉が、矢を入れる「靱(うつぼ)」になぞらえてこの地を名付けたという伝説も残るほどだ。

しかし第二次世界大戦後、その風景は一変する。空襲で焼け野原となったこの場所は、なんと米軍の飛行場滑走路として接収されたのだ。魚市場の喧騒から軍用機の轟音へ。その劇的な転換は、この土地が持つ運命の数奇さを物語っている。戦後の平和な時代が訪れると、滑走路は再びその役目を終え、市民の憩いの場である公園へと姿を変えた。現在はなにわ筋を挟んで、東には美しい薔薇園が、西には国際大会も開かれるテニスセンターが広がり、かつての面影はない。

この変遷は、単なる変化ではない。これこそ「機能的継承」の好例と言えるだろう。この空間は、魚という「モノ」の流通の結節点から、軍用機という「輸送」の結節点、そして市民という「人々」が集うレクリエーションの結節点へと、時代ごとに役割を変えながらも、常に都市にとっての重要なハブであり続けた。これこそ、大阪の実用的な叡智と驚くべきレジリエンスの証左に他ならない。このしなやかな商業精神は、公園のすぐ北側、京町堀(きょうまちぼり)というお洒落な地区に、最も洗練された形で受け継がれている。かつての魚市場が持つエネルギッシュな雰囲気とは対照的に、今ではスタイリッシュなカフェやベーカリー、質の高いセレクトショップが軒を連ねる。雑喉場の労働者文化から、洗練されたデザイン文化へ。この鮮やかな変身こそ、西区が現代の商業都市として成熟した証なのだ。

きょうまちぼり
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貿易港の夢の跡:川口居留地に佇む赤レンガの教会

明治時代、日本の主要都市はこぞって国際舞台へのデビューを夢見ていた。川口居留地は、まさに大阪が世界へ向けて開いた最初の窓であり、西洋文化と近代化への野心的な第一歩だった。

1868年に開港すると、この一帯は瞬く間に異国の香りに満たされた。外国商社が立ち並び、ガス灯が灯り、洋風建築が軒を連ねる。大阪初の西洋レストランやパン屋もここに誕生し、人々は目新しい文化に胸を躍らせた。しかし、その輝きは長くは続かなかった。川口の港は水深が浅く、大型の貿易船が入れなかったのだ。貿易の中心は、すぐに天然の良港である神戸へと移ってしまう。西洋人が去った後、この地には中国からの華僑たちが集い、小さなチャイナタウンを形成した。これもまた、この土地が持つ多文化的な歴史の一面である。

この「失敗」の物語は、しかし、単なる敗北ではない。海運貿易という夢が破れたからこそ、大阪は国内の商業・行政センターとしての強みをさらに磨き上げる道を選んだ。この挫折が、結果的に今日の大阪のアイデンティティを形作る上で極めて重要な転換点となったのだ。

居留地時代の華やかさを今に伝える最も美しい証人が、日本聖公会大阪主教座聖堂——川口基督教会である。1920年に完成したこの教会は、優美なゴシック建築、温かみのある赤レンガの壁、そして天を突く尖塔が印象的だ。それは、過ぎ去った夢の、静かで美しい守護者のように佇んでいる。その赤レンガの一つひとつが、あり得たかもしれない未来の記憶を宿しながら、大阪の国際化が始まった黎明期の物語を、今もなお雄弁に語り続けているのだ。

日本聖公会大阪主教座聖堂——川口基督教会
日本聖公会大阪主教座聖堂——川口基督教会

日本を動かした金融エンジン:薩摩藩蔵屋敷の知られざる力

江戸時代、大阪は「天下の台所」と呼ばれ、日本経済を支配する心臓部だった。その神経網ともいえるのが、諸藩が年貢米や特産品を管理・販売するために設けた蔵屋敷だ。西区には、全国の藩の蔵屋敷が集中していた。

中でも絶大な力を誇ったのが、薩摩藩である。薩摩藩はこの地に3つの戦略拠点を置いていた。土佐堀の「上屋敷」(居住・執務用)、江戸堀の「中屋敷」、そして立売堀の「下屋敷」(物資保管用)だ。これらは単なる倉庫ではなかった。藩の特産品を担保に巨額の資金を調達し、大阪の金融市場に多大な影響力を持つ、洗練された金融機関だったのである。そして、ここで生み出された莫大な資金こそ、幕末、薩摩藩が倒幕運動を推し進めるための軍資金となった。日本の歴史が大きく動いたその瞬間、その原動力はここ西区で生まれていたのだ。

この事実は、西区が単なる商業地区ではなく、日本の運命を左右するほどの政治的・金融的パワーが渦巻く場所であったことを示している。今日、上屋敷跡である土佐堀二丁目に立つささやかな石碑は、この地がかつて革命の金庫であったという、壮大な歴史を静かに伝えている。しかし、その精神をより色濃く受け継いでいるのは、物資保管を担った下屋敷のあった立売堀(いたちぼり)地区だろう。物流拠点としてのDNAは現代にも引き継がれ、今日の立売堀は、鉄鋼や工具、機械などを扱う専門的な問屋街として栄えている。薩摩の蔵屋敷が革命を支える「カネ」を生み出した場所だとすれば、革命を点火する「思想」が生まれた場所も、目と鼻の先にあった。

上屋敷跡である土佐堀二丁目に立つささやかな石碑は
上屋敷跡である土佐堀二丁目に立つささやかな石碑は

革命の思想が生まれた場所:商都の片隅にあった頼山陽の生家

実利を重んじる商人の街。それが大阪の一般的なイメージかもしれない。しかし、その片隅で、日本の近代化を思想的に準備した一人の偉大な学者が生まれていた。その名は頼山陽(らいさんよう)。彼の著作が、幕末の志士たちに与えた影響は計り知れない。

頼山陽の主著『日本外史』は、天皇中心の歴史観を打ち出し、幕府の権威に疑問を投げかけるものであった。この本は、やがて来るべき新しい時代、すなわち明治維新の哲学的支柱となり、多くの若者たちを「尊王攘夷」の思想へと駆り立てた。その思想の火種が生まれたのが、ここ西区の江戸堀なのである。

当時の彼の生家は、江戸堀の川面に面した、風雅な場所だったと伝えられている。

彼の故居の景観は極めて雅緻で、半間の家屋が江戸堀川面に突出し、藤蘿と盆栽の景致を鑑賞できたと記録されており、文人墨客の風雅な意境に満ちていた。

何よりも驚くべきは、革命を資金面で支えた薩摩藩蔵屋敷と、それを思想面で正当化した頼山陽の生家が、わずか数百メートルしか離れていないという事実だ。金融資本と知的エネルギーのこの異常なまでの近接が、幕末の西区を、新しい国家を鋳造するための、まさに「るつぼ」へと変えたのである。

今日、江戸堀一丁目のビジネス街に、頼山陽生誕地碑はひっそりと佇んでいる。現代商業の渓谷に埋もれたそのささやかな石碑を探し出すことは、さながら小さな巡礼のようだ。それは、商都大阪の奥深くに眠る知的伝統に触れ、近代日本を燃え上がらせた思想の火花そのものに接続する、力強い体験となるだろう。

らいさんよう | 江戸堀一丁目のビジネス街に、頼山陽生誕地碑はひっそりと佇んでいる
らいさんよう | 江戸堀一丁目のビジネス街に、頼山陽生誕地碑はひっそりと佇んでいる

華やかなる浪華の夢:消えた遊郭と現代に続く美意識

江戸時代、新町遊郭は京都の島原、江戸の吉原と並び称された日本三大遊郭の一つであり、単なる歓楽街ではなかった。そこは芸術、芸能、そして最高級の消費文化が渦巻く、浪華(なにわ)文化の心臓部だったのである。

春には「九軒桜堤」と呼ばれる桜並木が人々を魅了し、多くの文化人がこの地を訪れた。新町は、上方文化を育む揺りかごでもあった。特筆すべきは、近代上方歌舞伎を代表する名優、初代中村鴈治郎が、この新町の「扇屋」という妓楼で生まれたという事実だ。これは、遊郭という場所が、いかに深く日本の芸能と結びついていたかを物語っている。

遊郭の建物そのものは、今はもうない。新町北公園に立つ記念碑が、かつての華やかな夢の跡を伝えるのみだ。しかし、新町が体現していた精神、すなわち洗練されたライフスタイルと美意識への投資という価値観は、隣接する地区へと見事に受け継がれた。その精神の継承者こそ、南堀江である。もともと家具問屋街として栄え、質の高い暮らしを支えてきたこの地区は、現代において大阪随一のお洒落なエリアへと変貌を遂げた。ハイセンスな家具店、デザイナーズブランドのブティック、洗練されたカフェが立ち並ぶ南堀江は、まさに現代の美意識が集まる場所だ。新町が追求した刹那的な「粋」や「遊び」の文化は、南堀江において、時代を超えて愛される「デザイン」や「質の高い生活」への追求へと昇華されたのだ。

南堀江
南堀江

都市の記憶を歩くということ

西区の物語を辿ると、この街を貫く「韌性哲學(じんせいてつがく)」、すなわち強靭な回復力の思想が浮かび上がってくる。この街の偉大さは、古い建物をそのまま保存することにあるのではない。歴史の衝撃を受け止め、その記憶を内包しながら、常に新しい価値を創造し続ける驚くべき変容の力にあるのだ。

おそらく、旅の真髄とはこの「歴史穿透力」——歴史を貫いて見る力を養うことにあるのだろう。薔薇園の中に滑走路を、オフィス街の中に革命の金庫を見る力。あなたの足元には、どんな忘れられた地層が眠り、あなたが何者であるかの真実を、静かに語りかけているのだろうか。