(JPN) 士林夜市だけじゃない!台北の喧騒の裏に眠る、歴史を書き換える5つの物語
士林の真の姿は、その数々の矛盾の中にこそ浮かび上がります。それは、防御のために精巧に計画されながら現代の開発で消え去った都市の水路(計画的水利)と、今なお里山を潤し続ける先人の水路(生存的水利)が示す、異なる状況下での人間の創意工夫の物語。近代的な中心地に潜む聖域、二つの顔を持つ歴史、孤立した要塞から開かれた公園へ、そして大都市に今も流れる古代の水路といった、対照的な物語の集合体なのです。
臺北自來水事業處陽明分處「活水頭」"Source of Living Water" at Taipei Water Department's Yangming Branch office > 芝山巖事件碑記 1958 'Zhishanyan Incident Stele'
観光の歴史に関する魅力的な物語に注意深く耳を傾けてください
はじめに:喧騒を越えて
右!私にとって士林は夜市と同じです。台北の士林に来るたびに夜市を訪れ、おいしい食べ物を味わうからです。夜市の屋台を贔屓にしなくても、地元の夜市の雰囲気を味わいに行きます。
台北と聞いて多くの人が思い浮かべるのは、活気に満ちた「士林夜市」の光景でしょう。美食と熱気に満ちたこの場所は、間違いなく士林区の象徴です。しかし、歴史家の目には、この街の真の個性は美食の楽しみの中ではなく、アスファルトのすぐ下に埋もれた、防御、権力、そして対立の幾層もの物語の中にこそ見出されるのです。
この記事では、あなたの士林に対するイメージを根底から覆す、5つの驚くべき歴史の断片を紐解いていきます。さあ、清朝時代の幻の計画都市から、その物語を始めましょう。
忘れられた要塞都市と、その現代の悲劇
都市の起源を理解することは、その魂に触れることに他なりません。士林の始まりは、偶然生まれた集落ではなく、潘永清という一人の有力者による、計算され尽くした計画の上にありました。
1. 防御のために設計された幻の計画都市
清朝時代中期、潘永清が主導して築いた「士林新街」は、商業の拠点であると同時に、盗賊の襲撃から街を守るという極めて重要な目的を持っていました。当時の開拓社会におけるリスクを反映した、経済と防衛を両立させるための設計思想です。
その防御システムの核となったのが、「水棟」と呼ばれる二つの運河でした。現在の大南路と文林北路101巷にあたるこの運河は、物資輸送のルートであると同時に、街を囲む天然の堀として機能したのです。商業、宗教、そして防御機能まで備えたこの計画都市は、まさに「麻雀雖小,五臟俱全」(雀は小さいが五臓は揃っている)と称されるにふさわしい、完璧な設計でした。
この計画の巧妙さは、権力の配置にも表れています。潘家の邸宅「潘元記」は、宗教の中心である慈諴宮の右隣、そして市場のすぐそばという戦略的な場所に構えられていました。この配置は、潘家がこの街の商業、宗教、そして行政のすべてを掌握していたことを物理的に物語っています。
しかし、この壮大な計画の中心であった潘家の邸宅は、現代において悲劇的な運命を辿ります。その歴史的価値から市の古跡に指定される手続き中であったにもかかわらず、2017年頃、一族の一部によって部分的に取り壊されてしまったのです。これは、一族の利害、個人の財産権、そして公共の文化記憶という三者が複雑に衝突した痛ましい例として、私たちに多くを問いかけます。
旅のヒント (Travel Tip): 大南路と文林北路101巷を歩いてみてください。現代の道のカーブの中に、かつて街を守った運河の幻の姿を想像できるはずです。そこには、栄光の計画が現代の課題に直面した、歴史の影が横たわっています。
清の時代の地域主導の創意が現代の所有権争いに屈した一方で、続く日本統治時代は、植民地権力の力から生まれた、全く異なるトップダウンの土木技術をこの地にもたらしました。

近代化が湧き出す聖なる泉
日本統治時代における近代化は、単なるインフラ整備以上の意味を持っていました。大規模な公共事業は、新しい時代の到来を告げる力強い象徴だったのです。
2. 都心の喧騒に佇む、静寂の「水神様」
1928年から1932年にかけて建設された草山水道システムは、日本の土木技術の結晶でした。陽明山(旧称:草山)を水源とするこの水道の水質は極めて高く、複雑なろ過をほとんど必要としないほどだったと言います。
その誇りは、貯水池の曝気塔(ばっきとう)に刻まれた「活水頭」という三文字に象徴されています。「生命を宿す水の源」を意味するこの言葉は、近代技術がもたらした恩恵への自信の表れでした。そして、この近代技術の傍らには、驚くべきことに神聖な空間が築かれました。「圓山水神社」です。石灯籠や狛犬が今も残るこの神社は、近代科学と自然への畏敬の念が融合した場所ですが、それは単なる偶然ではありません。水源地と宗教施設を結びつけることは、近代技術の成果と地域に根差す自然崇拝を融合させようとする、植民地統治者の巧みな「文化統合」政策の表れでもあったのです。
この神社の最大の魅力は、その強烈な皮肉にあります。MRT剣潭駅のすぐそばという非常に便利な立地にもかかわらず、その存在はほとんど知られておらず、訪れる人もまばらで、深い静寂(幽静)に包まれています。この「触れることのできる孤立感」こそ、都市の喧騒のすぐ隣に存在する、忘れられた聖域の証なのです。
旅のヒント (Travel Tip): 台北自来水事業処陽明分処の隣にある神社を訪れてみてください。そして、「活水頭」の文字が刻まれた曝気塔を探し、都市の脈動のすぐそばで、時が止まったかのような静寂を体感することをお勧めします。
植民地時代の調和の物語(技術と宗教)から、次はその対立の物語へと目を向けてみましょう。

歴史のカメレオン—義賊か、それとも匪賊か?
歴史的なモニュメントは、過去の静的な記録ではありません。むしろ、後世の権力によって記憶とアイデンティティが絶えず書き換えられる「戦場」なのです。
3. 「義民」か「土匪」か?歴史が書き換えられた丘
1895年、日本の統治が始まって間もなく、芝山巖で植民地化政策に対する激しい抵抗運動が起こりました。いわゆる「芝山巖事件」です。日本の「同化教育」を担う国語伝習所の教師6名が殺害されたこの事件は、文化的な支配に対する血塗られた抵抗として記録されています。
ここからが、歴史の面白さであり、恐ろしさでもあります。日本統治時代、殺害された6人の教師は「教育のための殉教者」として祀られました。しかし、第二次世界大戦後、台湾を統治した国民党政府は、この事件に全く新しい解釈を与えます。1958年に建立された石碑には、襲撃者たちを「民族の気概」から文化的な同化に抵抗した「義民」(正義の民)として称える言葉が刻まれたのです。
歴史の流動性、そしてその解釈がいかに政治的な立場に左右されるか。このジレンマを、ある歴史家の言葉が的確に表現しています。
「是『土匪』或是『義民』?依個人立場不同,難有定論」 (彼らは「匪賊」か、それとも「義民」か?個人の立場によって異なり、結論を出すのは難しい)
旅のヒント (Travel Tip): 芝山巖に登り、そこに点在する様々な時代の碑文を探してみてください。特に***1958年の「芝山巖事件碑記」***は必見です。政治的な物語が、いかに風景そのものに刻み込まれるのかを、その目で確かめることができるでしょう。
公的な記憶を巡る対立の物語から、次は絶対的な権力が生み出した孤立の物語へと移ります。

指導者の孤独を語る、深緑色の要塞
国家指導者の邸宅は、しばしばその人物の政治思想、安全保障への懸念、そして国民との関係性を物理的に体現するものです。
4. 権力者の孤独を物語る「深緑色」の官邸
1949年以降、士林官邸は蒋介石の住居として、台湾の権力の中枢となりました。この官邸を特徴づけるのは、本館から警備員の兵舎に至るまで、すべての建物が「墨緑色」(濃い緑色)一色で塗られていることです。
この色は、周囲の森林に溶け込むための軍事的なカモフラージュでしたが、同時に、当時の政権が抱えていた政治的な孤立、冷戦下の緊張、そして深い不安感を象徴する色でもありました。しかし、その巨大な政治的重要性とは裏腹に、官邸の建築様式自体は「簡素で実用的」であったという事実は、強烈な皮肉を物語っています。質素な見た目の建物の中で、国家の運命を左右する途方もない権力が行使されていたのです。
40年以上にわたる厳格な軍事管制は、この場所を一般市民から完全に隔離しましたが、皮肉なことに、その人為的な干渉の欠如が、結果として手つかずの豊かな生態系を都心に保存することになったのです。1996年にこの官邸が一般公開されたことは、単なる観光地の開放以上の意味を持ちます。それは、台湾社会が権威主義的な時代から、民主的で開かれた時代へと移行したことを象徴する、歴史的な出来事でした。
旅のヒント (Travel Tip): 官邸本館だけでなく、蒋一家の私的な礼拝堂であった凱歌堂(がいかどう)にも足を運んでみてください。その簡素なデザインと、そこで下されたであろう国家の運命を左右する決断とのコントラストに、歴史の重みを感じるはずです。また、古い兵舎エリアを散策すれば、深緑色がかつて作り出していた隠蔽と隔離の雰囲気を肌で感じることができるでしょう。
政治エリートによって厳格に管理された風景から、次は一般の人々の手で築かれた、地域に根差した水のシステムへと視点を移しましょう。

先人たちが遺した、生きた水脈
国家が主導する壮大なインフラ計画の陰には、常に、生き残るために人々が生み出した地域独自の創意工夫の歴史が存在します。
5. 今もなお里山を潤す、先人たちの「生きた水路」
陽明山の麓に広がる坪頂古圳(へいちょうこせん)は、初期の開拓者たちが険しい山々の地形を克服し、農地を潤すために自らの手で切り開いた水路網です。
士林という一つの地域に、二つの全く異なる水の哲学が共存していることは注目に値します。一つは、植民地政府がその権威と技術力を示すために築いた「近代的水利学」の象徴、草山水道。そしてもう一つが、坪頂古圳に代表される、地域共同体が生き残るために生み出した「生存のための水利学」です。驚くべきことに、これらの水路は単なる歴史遺産ではありません。今日でも現役で農地に水を供給し、美しい棚田の風景を支える「生きた化石」として、台湾の人々の自給自足の精神を今に伝えています。
旅のヒント (Travel Tip): 坪頂古圳の遊歩道は、「夏の避暑地」として知られる絶好の散策コースです。水の流れがすぐ横を、時には足元を通り過ぎていく独特の感覚を味わいながら、三つの水路の水源を探してみてください。先人たちの知恵と努力に、きっと心を打たれることでしょう。
5つ目の物語を終え、この記事の締めくくりに入ります。

士林に響く歴史のこだま
士林の真の姿は、その数々の矛盾の中にこそ浮かび上がります。それは、防御のために精巧に計画されながら現代の開発で消え去った都市の水路(計画的水利)と、今なお里山を潤し続ける先人の水路(生存的水利)が示す、異なる状況下での人間の創意工夫の物語。近代的な中心地に潜む聖域、二つの顔を持つ歴史、孤立した要塞から開かれた公園へ、そして大都市に今も流れる古代の水路といった、対照的な物語の集合体なのです。
都市における最も価値ある「隠れた宝石」とは、単に静かな場所のことではありません。それは、私たちに歴史、権力、そしてアイデンティティについて深く考えさせてくれる空間のことではないでしょうか。

あなたの街の、見慣れた記念碑や通りの名前をもう一度見つめてみてください。それらはどんな公の物語を語っていますか?そして、もっと重要なことに、どんな矛盾した物語を隠そうとしているのでしょうか?
