(JPN) 東京・葛飾本田町:昭和の工業記憶と下町情緒を巡る歴史散歩ストーリー
東京・葛飾の「本田町」に眠る、かつての工業村の記憶を訪ねて。路地裏の史跡や昭和の面影を残す街並みを巡りながら、教科書には載っていない東京のリアルな変遷を紐解く歴史散歩ストーリー。
これは東京都葛飾区の本田町(旧本田村)を舞台にした、歴史紀行と散策ガイドです。かつての工業地帯としての記憶や古き良き下町の風景を辿りながら、隠れた史跡や路地裏に眠る物語を紐解きます。読者はこの歩き旅を通じて、現代の喧騒から離れた東京の知られざる変遷と日常の温もりに触れることができます。

東京の東端、葛飾区立石。再開発の足音が近づくこの街の路地裏には、現代の地図からは消え去った「本田町(ほんでんちょう)」という名の記憶が、幾重にも積み重なった地層のように眠っています。なぜこの街は、人を惹きつけてやまない独特の熱気と、どこか超然とした静謐さを併せ持つのか。その答えは、単なるノスタルジーの中ではなく、古代の物流網、巨大な治水工事がもたらした断絶、そして生存を賭けた戦後の生理的代謝の中に隠されています。歩行によってのみ辿り着ける、都市の辺縁が持つ強靭な歴史の断面を紐解いていきましょう。
観光の歴史に関する魅力的な物語に注意深く耳を傾けてください3
古代の道標「立石様」——古墳時代の物流と信仰の残響
立石という地名は、単なる記号ではありません。それは1500年以上前、この地が古代の交通ネットワークにおける戦略的な要衝であったことを示す、揺るぎない物理的な証拠に基づいています。
現在の住宅街の一角、「立石児童遊園」に静かに鎮座する巨石「立石様」は、地質学的な分析によって驚くべき事実を私たちに突きつけます。この石は地元産ではなく、遠く房総半島の鋸山付近から運ばれた「房州石(火山礫凝灰岩)」なのです。これは古墳時代後期、東京湾を跨ぐ強大な物流システムが存在し、河口地帯であったこの地に巨石を運び込むほどの権力と動員力があったことを物語っています。
江戸時代の『新編武蔵風土記稿』では、この石を「活蘇石(いきそいし)」と記し、冬に欠けても夏には復活するという「生える石」の伝承を伝えています。
元々は古墳の石室材料、あるいは古代東海道の里程標(道標)として機能していた実利的な石が、長い歳月を経て「信仰の対象」へと変容していった過程は、人々と土地の精神的な結びつきを象徴しています。現在は地表にわずかに顔を出すのみとなったその姿は、周囲の近代的な住宅という文脈から切り離された「古代への窓」のように、かつての官道の記憶を今に伝えています。
古代の道標が示したこの土地の境界性は、近代における巨大な人工河川の出現によって、物理的な断絶という新たな局面を迎えることになります。

荒川放水路の開削——引き裂かれた共同体と「木下川」の断層
明治末期から昭和にかけて断行された荒川放水路の建設は、まさに「空間的暴力」とも呼べる国家プロジェクトでした。1910年の大洪水を契機に、帝都の中心部を水害から守るという至上命題の下、本田町を含む周辺地域はその犠牲を強いられたのです。
幅400〜500メートルに及ぶ人工の巨大な「壁」は、長年培われてきた共同体を無慈悲に二分しました。特に重要なのは、皮革産業と農業の拠点であった「木下川(きねがわ)」地区の悲劇です。この地はもともと、社会的に周縁化された人々が低湿地を切り拓いた場所でしたが、放水路はこの共同体の心臓部を貫きました。すでに社会の端に追いやられていた人々にとって、これは二重の喪失を意味する「二度目の追放」に他なりませんでした。
この時の喪失感は、1916年に建立された鈴木與吉の記念碑に刻まれた「故郷を去る愛慕の情」という言葉に今も生々しく残っています。浄光寺(木下川薬師)などの寺院は、「曳屋(ひきや)」と呼ばれる、巨大な建築物を円木に乗せて移動させる驚異的な技術を用いて、土地を追われ、河道を避けて移転を余儀なくされました。
しかし、この巨大な「人工の壁」による隔離こそが、皮肉にも外部と隔絶された独自の経済圏を育み、後の立石エリアにおける濃密な商業文化を形成する土壌となりました。土地を削られ農地を失った人々は、生き残るために新たな「物質」に希望を託します。それが、この街を「世界の玩具工場」へと変貌させるセルロイドでした。

セルロイドの魔術——「樟脳」が支えた世界玩具王国の誕生
20世紀初頭、本田町は農業から高化学工業へのドラスティックな転換を遂げました。その主役は、人類初のプラスチックとも言われる「セルロイド」です。当時、日本統治下の台湾から供給された安価な「樟脳(しょうのう)」を原料に、この地は世界市場を席巻する玩具生産の拠点となりました。
1914年の「千種セルロイド工場」設立を皮切りに、第一次世界大戦で欧州産の供給が止まったことが追い風となり、産業は爆発的に成長します。特筆すべきは、巨大工場に資本が集約されるのではなく、無数の「下請け家内工業」へと分散していった点です。切断、吹込み、着色といった工程が路地裏の家々へと染み出し、街全体が樟脳の独特な香りに包まれる「職人の街」へと変貌を遂げたのです。
かつての工場跡地である「渋江公園」に立つと、今でも風の中にその時代の名残を探してしまいます。ここで作られた「キューピー人形」は、辺縁の地であった本田町と世界市場を直結させる象徴となりました。荒川の工事で農地を奪われた人々は、その手先の器用さを武器に職人へと転身し、下町工業の強靭な底力を形成していったのです。この産業の隆盛は人口の急増を招き、やがてこの地は葛飾の行政的中心地としての地位を賭けた争いに巻き込まれていきます。

行政中枢の選址と戦火——第一代区役所が物語る権力の移動
1932年の東京市合併に伴う葛飾区誕生の際、行政拠点の座を巡って、伝統的な宿場町である「新宿(にいじゅく)」と、新興工業地帯の「本田」が激しく対立しました。最終的に本田町が選ばれたのは、地理的な中心性以上に、工業化による「近代化のダイナミズム」が旧来の宿場文化を凌駕した、いわば「近代の勝利」を意味していました。
1937年、現在の立石六丁目の、かつては蛍が舞う湿地(葭原)であった場所に、文明の象徴として宏偉な新庁舎が落成します。しかし、この近代の凱旋は長くは続きませんでした。1945年の東京大空襲により、落成からわずか8年で庁舎は焼失。美しい建築も、積み上げられた行政記録も、すべてが灰燼に帰しました。
現在、初代区役所跡地(立石一丁目)に建つ立石図書館は、かつてこの地が「権力の移動」と「近代化の挫折」を経験した重層的な場所であることを静かに示しています。[葛飾区の産業遺産を巡る] 散策において、ここは単なる文化施設ではなく、都市の記憶が断絶し、再起動した地点なのです。行政の記録すら焼き尽くした戦禍の後、立石の路地裏では、人々の生命力が「血と酒」という最も原始的な代謝システムを形成し始めます。

血と酒の代謝史——「日本製薬」の血液銀行とせんべろの淵源
現在の立石を象徴する「飲み屋街」の文化。それは単なる娯楽の場ではなく、戦後日本の貧困と生存のための「生理的な代謝回路」という、切実な背景を持っていました。
1950年代、立石(現在の葛飾税務署付近)には日本最大級の血液銀行「日本製薬(通称バンク)」が存在しました。献血制度が未整備だった当時、生活に困窮した人々は自らの身体を資源とし、200ccの血液を売ることでその日の現金を手にしました。
この「売血」によって得られた血液から製剤化されたガンマグロブリンは、冷戦下のベトナム戦争における米軍供給用として輸出されていたという記録も残っています。
売血後の激しい貧血と空腹を紛らわせるため、人々は手にした現金で駅前の酒場へと向かいました。ここで、立石特有の「空間的自給自足」が機能します。隣接する木下川地区の皮革産業・屠畜場から供給される、主流の市場には出回らない新鮮で安価な内臓肉(もつ焼き)を食し、廉価な焼酎でエネルギーを再注入する。
血液という生命の源を金に換え、内臓肉でその欠損を補う——。この壮絶かつ生命力に満ちた循環こそが、「千円で酔える(せんべろ)」文化の真の起源です。現在の「宇ち多゙」などの名店に漂うもつ焼きの煙は、単なるグルメの対象ではなく、この街が極限の状況で生き抜いてきた「生命の記憶」そのものなのです。

結論:重層する「本田町」の断面を読み解く
葛飾・立石という街を歩くことは、地層のように積み重なった「外部からの干渉」を、いかにして独自のエネルギーへと転換してきたかを読み解く作業に他なりません。古代の物流網、国家による治水という暴力、世界市場と直結した工業化、そして冷戦構造にまで繋がっていた戦後の生存代謝。立石は常に外部から激しい揺さぶりをかけられながらも、そのたびに「本田町」という土地の底力を発揮し、独自の強靭な文化へと昇華させてきました。
都市を理解するとは、単なるランドマークの消費ではありません。その地面の下に積み重なった無数の代謝の跡を感じ取り、目に見えない血脈を想像することです。立石の路地を吹き抜ける風に、かつての樟脳の香りと、もつ焼きの煙、そして人々の生きる意志を感じ取ってみてください。
本記事が、皆様の知的な街歩きの一助となれば幸いです。さらなる歴史の深淵に触れたい方は、[東京下町歴史ガイド] の他のエピソードもぜひご覧ください。
トラベル・インフォメーション
- アクセス: 京成押上線「京成立石」駅下車。
- 推奨ルート: 立石様(立石八丁目)から、渋江公園(セルロイド工業発祥記念碑)を経て、立石仲見世商店街へ至る徒歩約2時間の歴史探索ルート。
- 周辺の歴史ツアー: 産業の歴史をより深く知るには、「葛飾区郷土と天文の博物館」でのセルロイド玩具展示の見学を強く推奨します。
Q & A
立石の「せんべろ」文化はどのようにして生まれたのですか?
立石の「せんべろ(千円でべろべろに酔える)」文化の誕生は、戦後の貧困期における「生理代謝と金銭」の循環という、非常に特殊で切実な歴史的背景に基づいています。出典資料によると、その誕生の経緯は以下の通りです:
1. 「血液銀行」という現金収入源
1950年代、立石八丁目には「日本製藥(Nichiyaku)」という工場があり、当時は日本最大規模の血液銀行(売血所)として運営されていました。
- 売血の仕組み: まだ献血制度が整っていなかった当時、貧困層や日雇い労働者、社会の周辺にいた人々が各地から集まり、血を売って現金を得ていました。
- 当時の価値: 200ccの採血で400円が得られました。これは現在の価値に換算すると約8,000円に相当する、まとまった現金収入でした。
2. 「失血」から「食補」への切実なサイクル
血を売った後の人々は、栄養不足や貧血で体が衰弱した状態にありました。そこで、手にした現金を持って最初に向かったのが、立石駅北口の「呑んべ横丁」や「仲見世商店街」の酒場でした。
- もつ焼きの役割: 衰弱した体を回復させるため、彼らはタンパク質が豊富で安価な「内臓焼き(もつ焼き)」を好んで食べました。
- 生理的な循環: **「血を売る(失血)→現金を得る→もつ焼きで補血する→安酒(焼酎)で憂いを忘れる」**という一連の生命維持プロセスが、立石の酒場文化の底流となりました。
3. 地域産業による「安さ」の裏付け
なぜこれほど安く「もつ」を提供できたのかについては、近隣の木下川地区の存在が大きく関わっています。
- 木下川地区には皮革産業と屠殺場があり、主流の小売市場には出回らない動物の内臓が、隣接する立石の酒場へ安価に供給される仕組みができていました。
- この「余剰資源」の活用により、極めて低価格で栄養価の高い食事を提供することが可能になりました。
4. 現代への継承
1990年に売血業務は終了し、血液銀行の跡地は現在の「葛飾税務署」となっていますが、酒場横丁は奇跡的に当時の雰囲気を残して生き残りました。 かつては生存のための「代謝」として始まったこの食習慣が、やがて独特の「昭和レトロな大衆文化」へと昇華され、今日の「せんべろの聖地」としてのアイデンティティを形成するに至ったのです。
参考文献とさらに読む
- 本田町 - accessed April 24, 2026,
- 葛飾区史 - 東京 - 葛飾区史|第2章 葛飾の歴史, accessed April 24, 2026,
- 香取神社【三社明神】 - 東京都神社庁, accessed April 24, 2026,
- 葛飾区の町名 - accessed April 24, 2026,
- 第2章 葛飾区の歴史, accessed April 24, 2026,
- 葛飾区史|第3章 近代化への道(明治~戦前), accessed April 24, 2026,
- 11 立石 - 葛飾区史|第3章 地域の歴史, accessed April 24, 2026,
- 葛飾区の立石様 - 日本実業出版社, accessed April 24, 2026,
- 立石様|立石地名の由来となった奇石 - 葛飾区の名所旧跡 - 猫の足あと, accessed April 24, 2026,
- 【こ】 古代では 立石様が 道しるべ|葛飾区公式サイト, accessed April 24, 2026,
- 明治・大正・昭和期に行われた荒川放水路開削工事と 市民の生活, accessed April 24, 2026,
- 荒川放水路変遷誌[PDF - 関東地方整備局, accessed April 24, 2026,
- 皮革関連産業の歴史と木下川小学校 - FC2, accessed April 24, 2026,
- 葛飾区史|第2章 葛飾の歴史, accessed April 24, 2026,
- 下町労働史 89 - 下町ユニオンニュース - FC2, accessed April 24, 2026,
- 知っていますか?荒川放水路のこと「荒川放水路通水100周年」 - 足立区, accessed April 24, 2026,
- 戦前戦後の葛飾区で盛んだったセルロイド玩具製造 | 郷土と天文の博物館ブログ, accessed April 24, 2026,
- 葛飾区史|第4章 現代へのあゆみ(戦後~平成), accessed April 24, 2026,
- 第2章 葛飾区の歴史, accessed April 24, 2026,
- 葛飾のセルロイドの歴史に迫る!!(#カツシカデシカ) - YouTube, accessed April 24, 2026,
- 葛飾区セルロイド工業発祥記念碑 - 発祥の地コレクション, accessed April 24, 2026,
- 葛飾区郷土と天文の博物館 - 東京 - ジャパンナレッジ, accessed April 24, 2026,
- 【え】 笑顔生む おもちゃ育てた セルロイド|葛飾区公式サイト, accessed April 24, 2026,
- 葛飾区史|第3章 地域の歴史, accessed April 24, 2026,
- 葛飾区立立石図書館 - accessed April 24, 2026,
- 7 図書館のあゆみ - 葛飾区立図書館, accessed April 24, 2026,
- 【 わがまち原動力】 戦後栄えた血液銀行の証言者たち(下)=郡山 ..., accessed April 24, 2026,
- 横丁に通いつめて集めた、「今しか聞けない」話|社会 - 中央公論.jp, accessed April 24, 2026,
- 早稲田大学教授に聞いた! 闇市起源の横丁の歴史とは? | Dig-it [ディグ・イット], accessed April 24, 2026,
- 五木寛之氏のエッセイに「立石か青砥の製薬会社で売血したことがある」と書かれていました。その ... - レファレンス協同データベース, accessed April 24, 2026,
- 京成立石駅前…まもなく消えてなくなる〝せんべろ〟の聖地 - 戦国ヒストリー, accessed April 24, 2026





