高井戸町(たかいどまち)をめぐる五つの話――甲州道中の第一宿から東京ごみ戦争まで
東京杉並区の高井戸を歩き、甲州道中の宿場町としての歴史、本覺院の伝承、神田川の水利、そして東京ゴミ戦争の記憶を巡る5つの物語。現代の喧騒の下に隠された江戸からの歴史の重みを味わう、深い街歩きガイドです。

本記事は、東京都杉並区高井戸を巡る歴史旅行ストーリーおよび街歩きガイドです。甲州道中の旧宿場町や修驗道の寺院、神田川の治水、そして日本全土に影響を与えた「東京ゴミ戦争」にまつわる5つの知られざる歴史を紐解きます。現代の街並みの下に眠る重層的な歴史のレイヤーを、スローな散歩を通じて感じ取れる一冊です。
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歴史と旅の物語 ・ 東京都杉並区 高井戸(旧・豊多摩郡高井戸町) ・ 日本語版
下高井戸の宗源寺(そうげんじ)には、不動堂がある。もとは近くにあった修験道の寺、本覚院(ほんがくいん)の堂だったという。本覚院は明治五年(1872)に廃寺となり、堂は明治四十四年(1911)にこの地へ移された。
その堂が、昔は高台にあって「高井堂(たかいどう)」と呼ばれた。それが「高井戸」の地名のもとだ、という言い伝えがある。杉並区の説明は「ともいわれています」と控えめで、私も確かな文献を見つけられなかった。だから、これは伝承として置いておく。
地名の由来が定かでない土地は珍しくない。ただ高井戸を語るには、もうひとつ数字がいる。「四里」である。日本橋から四里。この距離が、ここに宿場を置かせた。
一、四里目の宿――高井戸宿
甲州道中(こうしゅうどうちゅう)は、江戸幕府が整えた五街道のひとつである。日本橋を出て、内藤新宿、高井戸、府中、八王子を経て甲府に至り、さらに信濃へ通じた。通ったのは信州の高島・高遠・飯田の三藩の大名、甲府勤番の幕府役人、そしてその間を行き来する人びとだったと、区の説明板は伝える。
『東海道中膝栗毛』の弥次さん喜多さんは、宿場から宿場へと騒動をつないで旅をした。江戸の旅は、宿場の連なりとして語られてきたのだと思う。その甲州道中で、江戸を出て最初の宿場が高井戸だった。日本橋から四里、約十六キロ。内藤新宿ができるまでは、ここが第一宿である。
下高井戸一丁目の甲州街道沿いに、一里塚跡(いちりづかあと)の説明板が立つ。塚は五間四方、高さは一丈ほど、頂に榎(えのき)を植えた。旅人はこの塚で道のりを知り、駄賃などの支払いの目安にした。説明板の最後の一文は、塚の場所を「この場所の前方、高速道路下」と告げている。
見上げると、高架がある。塚は、その下に消えた。
新宿を生んだ「遠すぎる」宿場町
内藤新宿は、高井戸までの道のりが旅人に重すぎるとして、中間に宿を置く願いが出されて生まれた(新宿区の説明)。通俗的な読み物は、浅草の商人が願い出て元禄十一年(1698)に許され、運上金五千六百両を納めたと語る。ただ、確かな史料には当たれていない。開設は元禄十一年とも十二年(1699)とも言われ、享保三年(1718)に廃止、明和九年(1772)に再開した。「新宿」の「新」は、旧来の高井戸宿に対する「新しい宿」の意だという説もある。
高井戸宿は、「合宿(あいじゅく)」だった。上高井戸と下高井戸、二つの村がひとつの宿場の務めを分け合う仕組みである。月の前半は下高井戸が、後半は上高井戸が勤めた。本陣は、上高井戸が街道の北側、今の環八の交差点あたり、下高井戸が南側で覚蔵寺(かくぞうじ)の向かいと伝わる。どちらも「と伝わる」の域を出ず、これ以上確かな位置は見つからなかった。
江戸の端が遠すぎたために置かれた宿は、もっと近くに新しい宿ができて、「第一」の座を譲った。残ったのは、二つの村の当番表だった。
感覚の錨(Holographic Sensory Cue) 説明板の前で、自分の目で確かめられるのは二つだけだ。頭上の高架と、「前方」と書かれた一文である。榎と土の盛り上がりは、説明板が言葉で預かっている。(前者は確認できる事実、後者は文面に基づく再構成。)
共鳴点(Resonance Node) 杉並区下高井戸一丁目四十一番十二号の、一里塚跡説明板。

二、禁じられた不動堂――宗源寺と吉祥院
宗源寺は日蓮宗の寺で、慶長の初め(1596〜1614年ごろ)に日善が開いたと、檀家だった地理学者の志賀重昂(しが しげたか)が撰した碑文にある。志賀は『日本風景論』(1894年)の著者で、墓も境内にある。
冒頭の不動堂は、この寺のもとからの堂ではない。修験道(山岳信仰)の寺だった本覚院の堂が、本覚院廃寺のあと移ってきた。修験の行者は「山伏」と呼ばれ、山で修行し、村で祈りを行った。明治五年、政府は修験宗そのものを廃止し、山伏は神職や僧侶になり、あるいは農に帰った。維新後の神仏分離のなかで、一つの信仰の形が法の上から消えたのである。堂は昭和四十二年(1967)に再建された。「高井堂」の言い伝えは、冒頭に記したとおり、この堂にかかっている。
国家を騙した村人たち:明治時代の「お寺ハック」
高井戸西一丁目の吉祥院は、その糸をもう一本つなぐ。
明治八年(1875)、上高井戸村の行者、並木卓善(なみき たくぜん)は不動明王を信仰し、仲間と「新省講(しんせいこう)」を結んで、寺を建てようとした。ところが、新しい寺の建立は禁じられていた。そこで、すでにある寺を移すことにした。谷中の天台宗の吉祥院である。二世住職、榎本晃恭(えのもと こうきょう)のとき、檀信徒の協議を経て、明治十六年(1883)に高井戸へ移った。本堂は、江戸時代に東叡山寛永寺から賜った慈眼堂(じげんどう)を谷中から移築したもので、堂の前の築山には、五大明王、三十六童子、八大童子、身代わり不動、大日如来、倶利迦羅(くりから)不動が並ぶ。
日付を並べる。明治五年、禁止。明治八年、結講。明治十六年、移転。信仰は消えず、寺の名義を替えて生き延びたように見える。これは、区の二つの説明板を並べて読んだ私の解釈で、どの文献もそうは書いていない。
日本の風景を論じた地理学者が、「高い堂」の伝承を持つ寺に眠っている。二つを結ぶ文献はない。
感覚の錨(Holographic Sensory Cue) 区の説明板によれば、吉祥院の築山には、尊像が次々に並んでいる。自分の目で、数えてみることができる。
共鳴点(Resonance Node) 宗源寺の不動堂と、吉祥院の慈眼堂および築山。

三、しなる杉と、描かれた夕立
国木田独歩が『武蔵野』で雑木林の美しさを書いたのは、明治三十一年(1898)である。同じ明治の世、高井戸では杉を切り、胡瓜を育てていた。
高井戸丸太、別名・四谷丸太(よつやまるた)は、皮を剥いだ杉の丸太で、『杉並区史探訪』などの記述によれば、よくしなる優れた竿材だった。上・下高井戸では「高井戸節成胡瓜(ふしなりきゅうり)」も作られ、節ごとに実をつけるこの胡瓜は、明治中期から昭和中期まで名産として知られた。
変わり目は、鉄道と災害だった。大正二年(1913)、京王電気軌道が開通し、上高井戸駅(現・芦花公園駅)と松沢駅(現・八幡山駅)ができた。資料によれば、京王による電力の供給は大正五年(1916)に始まる。続いて第一次大戦後の不況、そして大正十二年(1923)の関東大震災。区の記述は、震災以降に宅地化が進み、杉林が急速に姿を消したと伝えている。
東京に飲み込まれた幻の農村
杉並区立郷土博物館は、大正時代の一枚の絵をシンボルにしている。高橋松亭(たかはし しょうてい)の『高井戸の夕立』である。博物館自身が、これは実在のある場所の景色ではなく、昔を偲んで描かれた「高井戸のイメージ画」だと説明している。大正の世にすでに、思い出のなかの高井戸を描く人がいたのだ。
感覚の錨(Holographic Sensory Cue) 杉の丸太は手のなかでしなう。だから文献は、よい竿材だと言う。(材の性質は文献の記述。手に握った感触は再構成。)
共鳴点(Resonance Node) 上高井戸に残る畑や農産物直売所(具体的な場所は現地で要確認)。そして、高井戸の外、大宮一丁目の郷土博物館にある、あの絵。
あの地震は、高井戸でもうひとつのことをした。

四、震災の老人のための家――浴風会
大正十二年(1923)九月一日、関東大震災。翌年九月の内務省の調査では、救護の必要な者は654人、うち586人が六十歳以上だった。
はじめは、震災後の住宅を担った同潤会に託す案があった。大正十三年(1924)七月十六日の案は見送られ、九月二十三日に、内務省は別の財団を新設する方針に切り替えた。財団法人浴風会は、大正十四年(1925)一月十五日に設立された。設立者と許可権者は、同じ人物――内務大臣の若槻禮次郎(わかつき れいじろう)である。基金は二百万円で、五十万円が皇室の下賜金、百五十万円が寄付金だった。
敷地は豊多摩郡高井戸、上高井戸八百四十八番地。広さは約二万七千坪(二万八千坪とする資料もある)で、大正十四年九月二十四日に購入された。なぜ高井戸が選ばれたのか、公的な説明は見つからず、通俗的な資料は「広い土地だったから」とだけ記す。設計は内田祥三(うちだ よしかず)の名で、実際の設計には若い土岐達人(とき たつんど)があたったとされる。大正十五年(1926)竣工の本館は、鉄筋コンクリート造の二階建て、一部三階である。最初の入園者は、昭和二年(1927)二月一日に入った。
お年寄りの要塞を奪った最高機密部隊
入る人の選び方には、注意が要る。最初の入園者のうち、震災の収容所から来た者はわずかだった。のちの運営者は、浴風園は救護施設ではないと書き、適当と認める者だけを収容した。研究者は、ここに内務省の社会思想――家族、隣保、地域、そして国家へと積み上げる考え方――を読み取る。これは研究者の解釈であって、条文ではない。
戦争が来た。昭和十七年(1942)九月から、陸軍は東翼を借り受けて陸軍中央通信調査部を置き、昭和二十年(1945)七月には、ほぼ全棟が軍の使用となった。老人の一部は浦和や栃木へ疎開した。浴風会の会報に載った元見習士官の回想によれば、この部隊は暗号の解読にあたっていて、アメリカ軍の地図では、この一帯が爆撃しない地区として白く空けられていたという。浴風会が空襲を受けなかったのは事実だが、理由は分からない。「白い地図」の話は、一人の証言にとどまり、裏づけはない。敗戦後、建物は傷んで返還され、財団が持っていた満鉄の株は紙くずになった。
震災の老人のために建てた耐火の建物は、秘密の軍の機関になり、老人たちは移された。二つの災厄を越え、役目は二度変わった。いま本館は東京都選定歴史的建造物(第三十七号)で、敷地の緑は杉並区の保護樹林に指定され、現役の高齢者施設である。
感覚の錨(Holographic Sensory Cue) 敷地の樹木が保護されているのは、記録にある事実だ。その木陰を、昭和二年二月一日、最初の入園者が歩いて入っていった。(後半は再構成。)
共鳴点(Resonance Node) 高井戸西一丁目の、浴風会本館。(同じ震災が、高井戸に老人の家を植え、杉林を抜いた。この対比は本稿の並置であって、区の言葉ではない。)

五、九年の空き缶――東京ごみ戦争
昭和四十一年(1966)十一月十四日、高井戸の住民は、新聞折り込みのチラシで、東京都がここに杉並清掃工場を建てると初めて知った。事前の相談は、なかった。五日後には反対の同盟ができ、一週間で約二万人の署名が集まった。昭和四十三年(1968)八月、都は土地収用の手続きを始め、十月、都の測量隊が来ると、住民は阻止した。区のまとめでは、ゴルフ練習場の鉄塔に見張りを置き、動きがあれば空き缶を叩いて、近所を呼び集めたという。
争いは、高井戸だけのものではなかった。東京のごみの大半は江東区へ運ばれていた。昭和四十六年(1971)九月二十八日、美濃部亮吉都知事が「ごみ戦争」を宣言し、昭和四十七年(1972)十二月二十二日、江東区は杉並区のごみ収集車の搬入を阻止し、昭和四十八年(1973)五月二十二日にも繰り返した。
空き缶を叩いて9年抗議?東京ごみ戦争の激戦地・高井戸
昭和四十七年二月二十六日には、強制収用はしないという覚書が交わされた。昭和四十八年五月二十三日、都は高井戸での建設をあらためて決定した。昭和四十九年(1974)十一月二十五日、東京地方裁判所が和解を勧告し、九年の対立は終わった。工事は昭和五十四年(1979)に始まり、昭和五十七年(1982)に第一期が完成、搬入路は環八の地下を通った。昭和五十八年(1983)一月一日に全面稼働し、四月一日には区民センターが開いた。清掃工場は平成二十九年(2017)に建て替えられて再稼働し、いまは東京ごみ戦争歴史みらい館と、ごみの焼却熱を使った足湯がある。
住民は九年抵抗し、裁判所の和解勧告で幕を閉じた。区民センターには、子どもの像が立つ。しかしこれは杉並区の側の語りである。あの年月に、最も重い荷を負った江東区の人びとには、それぞれの記憶があるはずで、その記録は別に確かめなければならない。
感覚の錨(Holographic Sensory Cue) 足湯の温かさは、ごみを燃やした熱から来る。区の公式の説明である。腰を下ろしたとき何を感じるかは、あなた自身で確かめてほしい。
共鳴点(Resonance Node) 杉並清掃工場と、東京ごみ戦争歴史みらい館。

今日の高井戸
今日の高井戸を歩いても、歴史は探して見つかるものではない。塚は高速道路の下にあり、杉は住宅に変わり、老人の家とごみの工場は、いまも働いている。残っているのは、説明板が一枚、寺が二つ、大正の本館が一棟、そしていまも毎日動く清掃工場である。
結び
説明板は、塚は前方、高速道路の下にあると言う。説明板はここに立って、もう見えない場所を指している。
月の前半は下高井戸の番、後半は上高井戸の番だった。
現地へのアクセス(Accessing the Physical Node)
- 一里塚跡説明板:杉並区下高井戸1-41-12、甲州街道沿い。屋外で、いつでも見られる。
- 宗源寺:下高井戸4-2-3。吉祥院:高井戸西1-5-44。どちらも現役の寺である。参拝の心持ちで訪れたい。
- 浴風会本館:高井戸西1-12-1。現役の高齢者施設で、敷地が一般に開放されているかは確認できなかった。事前に問い合わせ、入居者の生活を尊重したい。
- 杉並清掃工場・東京ごみ戦争歴史みらい館:高井戸東3-7-6(〒168-0072)。区の案内(2026年3月15日更新)によれば、9:00〜16:00、日曜と年末年始は休み。車・バイクでの来場は不可。足湯の時間や休止日は、公式サイトで確認してほしい。
- 杉並区立郷土博物館(大宮1-20-8):上高井戸宿の復元模型とシンボルの絵がある。展示と観覧料は最新情報で確認を。
- 最寄り駅:京王井の頭線の高井戸駅、京王線・東急世田谷線の下高井戸駅。各地点間の徒歩時間は確認していないので、地図で確かめてほしい。
💡質疑応答
Q1 | 高井戶宿(Takaido-juku)は甲州道中でどのような役割を果たし、なぜ内藤新宿の開設によってその位置づけが変わったのですか? (甲州道中と宿場の変遷)
答:歴史的記録によると、高井戶宿は日本橋から四里(約16キロメートル)離れた位置にあり、内藤新宿が設置されるまでは甲州道中で江戸から最も近い第一の宿場として機能していた。しかし、江戸からの距離が旅人にとって長すぎたため、幕府は元禄11年(1698年)頃に中継地として内藤新宿の開設を許可し、高井戶は第二の宿場へと位置づけが移行した。高井戶宿は上高井戶村と下高井戶村の2つの村が半月ごとに宿駅業務を交代で担当する「合宿(あいじゅく)」体制をとっていた。
Q2 | 高井戶(Takaido)の地名の由来は宗源寺の不動堂にまつわる伝承とどのような関係がありますか? (地名の起源と修験道歴史の考据)
答:地方の伝承では、かつて高台に存在した「高井堂」と呼ばれる不動堂が「高井戶」という地名の語源になったと言われている。しかし、杉並区の公式説明や歴史考据においても「ともいわれている」という表現にとどまっており、確実な歴史文献による裏付けは得られていない。不動堂自体は明治5年(1872年)の修験宗廃止令によって廃寺となった本覚院のものであり、1911年に宗源寺に移築されたものであるため、地名の直接的な由来については現在も伝承の域を出ない。
Q3 | 吉祥院(Kisshō-in)は明治時代の新政府による法規制限をどのように回避して高井戶に移転したのですか? (明治時代の寺院整理と吉祥院の移転)
答:明治8年(1875年)、上高井戶村の行者・並木卓善らが不動明王を信仰して新寺建立を試みたが、当時の明治政府は新寺の建立を厳しく禁じていた。この法的制約をクリアするため、東京・谷中にあった天台宗の吉祥院を丸ごと高井戶へ移転させるという行政的・宗教的な折衷策がとられ、明治16年(1883年)に移転が完了した。現在の本堂は江戸時代に上野の寛永寺から下賜された慈眼堂であり、官僚的規制の抜け道を突く形で地域の宗教文化が継承された。
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参考文献とさらに読む
第一層:一次資料と制度的起源
- [R1] 杉並区: 区の沿革 (Suginami Ward history; 1889 villages, 1932 incorporation)
- [R3] 杉並区: 京王線沿線まちづくりニュース 第3号 (aishuku system, honjin sites, 高井戸丸太, Keiō 1913)
- [R4] 杉並区: 甲州道中一里塚跡 (marker text)
- [R5] 新宿区: 新宿区について (Naitō-Shinjuku founding)
- [R9] 杉並区: 宗源寺 (marker text)
- [R10] 杉並区: 吉祥院 (marker text)
- [R11a] Edo-Tokyo Museum Digital Archives: 修験宗廃止につき太政官布達 (1872)
- [R14] 東京都都市整備局: 歴史的建造物 (浴風会本館, selection no. 37)
- [R16] 杉並区: 東京ごみ戦争
- [R17] 杉並区: 区の歩み 年表 (1968 expropriation; 1972 Kōtō blockade)
- [R18] 杉並区: 杉並清掃工場 施設案内 (address, hours, 歴史みらい館)
- [R21] 杉並区立郷土博物館: 常設展示室 (高橋松亭《高井戸の夕立》)
- [R25] 杉並区: 指定文化財 有形民俗文化財 (板絵着色西国巡礼図, 長泉寺)
- [R8] Bibliographic records only (not read): 杉並区教育委員会『甲州道中「高井戸宿」』1981, CiNii; 杉並区立郷土博物館『すぎなみの地域史 II 高井戸』2019, NDL
第2層:二次学術文献
- [R12] 岡本多喜子「関東大震災の義捐金処分と浴風会の創設」(Meiji Gakuin; funding, site, staff, wartime)
- [R13] 文京学院大学紀要 (浴風園の沿革; 1925 site decision)
- [R11b] 林淳「明治五年修験宗廃止令をめぐる一考察」(2002), catalogue record (not read); 群馬県: 1872 修験道廃止令の説明
- [R15] Kotobank: 志賀重昂 (biography)
- [R17b] 大阪大学リポジトリ: 志賀重昂論 (death date 6 April 1927)
- [R18b] 国立国会図書館 Kaleido: 志賀重昂 (death March 1927)
- [R6] 財務省「ファイナンス」2024年1月号: 新宿区 (opening 1699, abolished 1718, revived 1772)
- [R7] 幻冬舎GOLD ONLINE: 内藤新宿 (1698 petition); nippon.com: 内藤新宿と四谷大木戸
- [R22] すぎなみ学倶楽部: 地名資料 (小島郷 speculation)
第3層:経絡の補修






