和田堀町(わだほりまち)――火薬庫と墓地と水道を預かった、消えた東京の町
東京・杉並区に、町として存在したのはわずか六年という名がある。和田堀。その土地には、弥生時代の墓、幕府の火薬庫、築地から移された死者、都市に水を送る管が、順に置かれてきた。五つの記録が、静かな住宅地の下にあるものを見せてくれる。
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これは東京・杉並区の西部を歩く、歴史紀行である。かつての和田堀町にあった五つの場所――弥生時代の墓が出た神社の森、参詣の寺、火薬庫の跡、都心から移された墓地、そして水道管の上の道――をたどる。読み終えるころには、ありふれた住宅地の下に何があるかがわかり、実際に歩ける道筋も手に入るはずだ。
善福寺川沿いの遊歩道は、大宮八幡宮の北門を出てすぐに始まる。川に沿って、桜が並んでいる。
門のすぐ外に、小さな石碑と説明板がある。「大宮遺跡」と書かれている。
一九六九年、ここで弥生時代後期の方形周溝墓が三基見つかった。赤く彩色した土器、勾玉、小さなガラス玉。誰かが、身につけていたものと一緒に、四角い溝の中へ、そっと納めたのだ。
その人の名は、どこにも残っていない。
発掘された場所はいま埋め戻され、上には神社の森と、川と、遊歩道がある。この土地には、のちに「和田堀」という名の町があった。六年で消えた町である。
和田堀という名
明治二十二年(一八八九年)、和田村・堀之内村・和泉村・永福寺村の四つの村が合併して、和田堀内村となった。大正十五年(一九二六年)七月一日、町制を施行して町となり、名を「和田堀」と縮めた。昭和七年(一九三二年)十月一日、東京市は周辺の八十二の町村を編入し、新しい区に分けた。和田堀町は杉並町・井荻町・高井戸町とともに杉並区となり、町名は行政の地図から消えた。
「和田堀」は、「和田」と「堀之内」を縮めた、明治式の合成地名に見える。和泉と永福は名前から抜け落ちている。これは資料からの推定であり、地方史で確かめたうえでなければ、事実として書けない。
名は消え、土地は残った。この土地が預かってきたものを、五つ見ていく。
一、大宮――神より先に墓があった
大宮八幡宮の北門を出た先、善福寺川の遊歩道沿いに、石碑と説明板が立っている。
昭和四十四年(一九六九年)の発掘で、旧境内地から弥生時代後期の方形周溝墓三基が見つかった。赤彩の土器、勾玉、ガラス小玉が出ている。川の対岸の松ノ木遺跡には同時代の住居跡があり、研究者は、葬られた人々をこの集落の有力者とみた。出土品は昭和五十七年(一九八二年)に杉並区の有形文化財に指定された。
被葬者の名を伝える記録はない。
神社は、この遺跡を次のように読む。墓は旧社殿の位置とほぼ重なり、古くからこの地を聖域とみる信仰が、のちの神社の創建につながったのではないか、と。これは神社側の解釈である。墓と社の創建とのあいだには数世紀の隔たりがあり、その間が途切れずつながっていたことを示す文書はない。
弥生時代の墓の上に建つ「東京巨大神社」の数奇な運命
社伝は、もう一つ別の種類の語りである。源頼義・義家父子が前九年の役の帰途にここを通り、白い雲が八旗のようにたなびくのを見て、八幡大神のしるしと受けとった。康平六年(一〇六三年)、その礼に、京都の石清水八幡宮から神を勧請した、という。「八幡」は「八つの旗」とも読める。これは伝承であって、確定した史実ではない。
確かめられるのは、もっとあとである。熊野那智大社に残る文書に、貞治元年(一三六二年)、大宮の社僧が参詣したと記されている。境内からは鎌倉時代の瓦も出土した。十四世紀には、この社は伝承だけの存在ではなくなっている。
明治維新の神仏分離で、神社に付属した寺、大宮寺は廃された。観光資料によれば、約三万五千坪の境内地が国に収められた(数字は要確認)。残る約一万五千坪は、いまも東京二十三区で三番目に広い社地である。失われた大宮寺の宝篋印塔は、神社から離れた堀ノ内一丁目に移され、区の文化財に指定されている。
社叢は昭和八年(一九三三年)十月に天然記念物に指定され、周辺の和田堀風致地区も同年一月に定められた。
Holographic Sensory Cue: ここに記すのは、いま観察できるもの、または文献が裏づけるものだけだ。弥生の人々が何を聞き、何を見たかはわからず、想像は加えない。本殿の裏手の森はヒノキが最も多く、クスノキやシラカシなどの常緑広葉樹、ソメイヨシノが混じる(東京都の説明板による)。北門の外、善福寺川沿いの遊歩道は和田堀公園へ続き、観光資料は川沿いのソメイヨシノを約七百本と数える。このあたりはもともと低地で、川があふれると水がたまって池になったという(東京都の公園計画)。公園の池は、一九五〇年代の河川改修でつくられた人工のものである。

二、堀之内――厄を払う道
女子美術大学の敷地で、平成十九年(二〇〇七年)の発掘調査から、「しがらき」と書かれた茶碗が出た。杉並区はこれを、妙法寺の参詣道にあった水茶屋や料理屋と結びつけている。(手元の説明文は途中までしか確認できておらず、この結びつきは要確認である。)
茶碗は、一本の道へとつながる。
堀之内道、あるいは妙法寺道と呼ばれた。青梅街道の中野・鍋屋横丁で分かれ、堀之内村の妙法寺へ至る道である。区の説明板によれば、和田村と高円寺村の境でもあった。
妙法寺は、寺伝によると、もとは真言宗の尼寺だった。元和年間(一六一五〜二四年)に日逕が亡き母のために日蓮宗に改めたといい、開山の日圓は元和七年(一六二一年)に没したとされる。寺伝であり、一つずつ確かめるのは難しい。
寺を有名にしたのは、一体の像だった。元禄十一年(一六九八年)、目黒・碑文谷の法華寺(現在の圓融寺)が日蓮宗から改宗させられ、寺にあった日蓮像が妙法寺に移された。以来、この像は「厄除祖師」として江戸の人々を集めた。像には別の伝承もある。弘長元年(一二六一年)の伊豆配流のあと、由比ヶ浜に流れ着いた霊木を、弟子の日朗が刻んだというものだ。伝承であって、実証ではない。
江戸最大のレジャーストリートの誕生
一つの寺の改宗が、別の寺の信仰を育てたことになる。歴史は、ときにそうやって動く。
参詣の様子について、区は『江戸名所図会』が浅草観音と並ぶ賑わいと書いたこと、十一代家斉と十二代家慶が寺の書院で休んだと伝えられることを紹介している。江戸の医者の随筆には、新宿から寺の門までのあいだに、水茶屋や料理屋が数百軒も並んだとある。広重も天保年間に、この参詣を描いた。
厄を払うために歩く道の両側に、飲み食いの店が並んでいた。信心と行楽が、ぶつかりもせず同じ道に並んでいる。これは解釈だが、江戸の人々にとって「町を出て過ごす一日」とは、そういうものだったのかもしれない。古典落語『堀之内』は、この参詣が舞台である。
現在の妙法寺には、国指定重要文化財の鉄門と、東京都指定の祖師堂・書院・仁王門が残る。

三、火薬庫――幕府から陸軍、そして校舎へ
明治大学和泉キャンパスの正門わきの土手に戻る。
宝暦年間(一七五〇年代)、幕府はここに和泉新田御塩硝蔵を置いた。広さは約一万八千八百九十六坪(約六万二千平方メートル)、蔵は五棟。鉄砲玉薬方の同心三人が、一年交代で常駐した。警備や雑役は近隣十六か村の負担で、昼夜を分けて三人ずつが出た。
蔵の安全は、百姓の労役に支えられていたのである。
明治維新のとき、蔵は官軍に接収された。弾薬は上野の彰義隊との戦いや東北の戦に使われたといわれる(「といわれる」であり、確認はされていない)。その後、兵部省から陸軍省に移り、麻布の歩兵連隊が警備する「和泉新田火薬庫」となり、大正末期に廃止された。
幻の「火薬庫前」駅と明大前の誕生
明治の終わりごろまで、火薬庫の周りは雑木林とケヤキに囲まれ、狐や狸がすみ、人が化かされたという話も語られた。地元の伝承である。人が、立ち入れない土地について、どう語るかを伝えている。
鉄道は、この言葉を残した。京王電気軌道は、大正二年(一九一三年)にここへ「火薬庫前」駅を開き、のちに「松原」と改め、昭和十年(一九三五年)に「明大前」とした。玉川上水が敷地のそばを流れており、大学の門の近くには、いまも橋の跡がうかがえる。
昭和五年(一九三〇年)、明治大学はこの土地を予科の移転先として購入した。最初は運動場として使い、校舎は昭和九年(一九三四年)に開かれた。同じ昭和五年、築地本願寺も旧火薬庫の別の一部を取得し、墓地とした。
破壊の手段を蓄えていた土地が、大学と墓地に分かれた。

四、都市とともに移った墓地
築地本願寺和田堀廟所は、永福一丁目、旧火薬庫跡の隣にある。
大正十二年(一九二三年)九月一日、関東大震災の火災で、築地本願寺と五十七の子院が焼けた。本堂は元の場所に再建された。しかし墓は、そこに残せなかった。陸軍省の旧火薬庫用地が売りに出されると、本願寺は昭和四年(一九二九年)に申請を許され、翌年に所有者となり、地名にちなんで「和田堀廟所」と名づけた。広さは約一万二千坪、富士山を望む、公園式の近代的な墓地として売り出された。
これは例外ではない。地震史の研究者・武村雅之は、帝都復興が、明暦の大火(一六五七年)以来約二百七十年ぶりの、最大規模の寺院移転を引き起こしたと指摘する。築地本願寺や浅草本願寺の系統の寺も、その中に含まれていた。
火薬庫跡地へ大移動した「東京の死者たち」
そもそも築地は、埋め立てた土地である。明暦の大火で本願寺が焼けたのち、幕府は寺に浅い海を与え、埋め立てさせた。摂津国の佃村・大和田村から将軍の命で江戸へ呼び寄せられ、寛永二十一年(一六四四年)に佃島を築いた漁民たちが、その埋め立てを手伝った。いま和田堀廟所には、佃島の人々の墓所と、三十三人の先祖の由来を記した碑がある。
大阪近くの漁村、江戸の海岸、震災後の東京、西郊の陸軍火薬庫。一本の線が、それらを結び、墓地で終わる。
区の説明板は、この墓地の著名人として樋口一葉、九条武子、海音寺潮五郎、古賀政男、水谷八重子、服部良一をあげている。一葉は明治二十九年(一八九六年)十一月二十三日に没し、二十四歳だった。ある古い墓参記(日付不明、現在の状態は要確認)によれば、墓には「先祖代々之墓」とあり、法名は側面に刻まれているだけだという。同じ記述は、葬儀の参列者は十数人だったとも伝える。
昭和二十年(一九四五年)五月二十五日の空襲で、廟所の建物はすべて焼けた。仮のバラックの本堂が使われ、本堂が再建されたのは昭和二十八年(一九五三年)である。

五、水道管と電車、消えていく名
最後の話には、人が出てこない。
東京市は大正二年(一九一三年)に第一次水道拡張事業を始めた。大正十三年度(一九二四年度)までに、第一期工事として境浄水場、境と和田堀を結ぶ送水管、和田堀浄水池などができた。震災後は復興資金で送水管が急がれ、昭和三年度に完成し、事業全体の完了は昭和十一年度(一九三六年度)だった。
つまり「和田堀」の名は、町ができる二年前に、すでに東京の水道に刻まれていた。
震災後、和田堀町を含む十三の町が荒玉水道町村組合をつくった。水は多摩川から取り、砧で浄水し、約十七キロの口径一・一メートルの管で北へ送った。その上を走る道は、妙法寺の西側近くから約七・七キロ、まっすぐに続く。管を守るため、大型車は通れない。
インフラに飲み込まれた幻の町
だから、曲がりくねった町の中に、一度も曲がらない道がある。
鉄道は最後に来た。昭和八年(一九三三年)一月、会社は帝都電鉄と名を改めた。昭和七年の市域拡張で、沿線が首都の一部になったからである。同年八月一日、渋谷から井の頭公園までが開通し、永福町駅と西永福駅も同時に開業した。沿線の多くは未開発の土地で、経営は苦しかった。明大前の跨線橋には、環状線のための余地が残された。計画された「第二山手線」は、ついにつくられなかった。
昭和六年(一九三一年)十一月、東京市臨時市域拡張部は、編入予定の周辺町の現状調査をまとめた。和田堀町もその一つである(その冊子は、まだ所在を確認できていない)。
町は昭和七年に終わった。名は終わらなかった。昭和八年一月の風致地区、廟所、給水所、そして昭和三十二年(一九五七年)に計画決定され、昭和三十九年(一九六四年)八月一日に開園した和田堀公園が、その名を残している。
戦争末期の家族の手記(一人の証言であり、公式の確認ではない)には、和田堀給水所をねらった焼夷弾が昭和二十年五月二十五日に和泉へ落ち、筆者の方南町の家を焼いたとある。家族は、徴用や疎開で散っていたために、全員が助かったという。

八幡・お祖師様・浄土――和田堀の重なる信仰
まず枠組みそのものについて。この台地に、先住民の宇宙観が記録されたものはない。弥生の人々が何を信じていたかはわからず、語れば推測になる。本稿はそれをしない。
文献で裏づけられる枠組みは複数あり、重なり合っている。
- 八幡信仰(神仏習合)。 大宮八幡宮は、清和源氏の武士が八幡神を崇めた系譜に連なり、明治の神仏分離まで、神社には仏教寺院が付属していた。八幡神は武士の神であり、のちに安産、子どもの守り、厄除けの神ともなった。制度としては記録があり、康平六年の創建譚は伝承である。
- 日蓮宗と「厄除」。 妙法寺の祖師像に人が集まったのは、江戸の人々がそれを厄を遠ざけるものと信じたからだ。この信仰は記録があり、田舎の尼寺がなぜ都市民の目的地になったかを説明する。杉並区内には、日蓮宗の題目を刻んだ文明三年(一四五一年)の月待供養板碑があり、信徒が月待のような民間習俗を取り込んだことがわかる(出土地は資料に記されていない)。永福寺には正保三年(一六四六年)の五輪庚申供養塔がある。こうした庶民の小さな信心が、大寺と並んでいた。
- 浄土真宗の追慕。 和田堀廟所は本願寺派に属する。この宗派の一般的な理解では、亡くなった人は阿弥陀仏に迎えられて浄土に往生し、墓は、死者が住む場所ではなく、生きる者が思い出す場所である(表現は、本願寺側の資料で要確認)。
現代の言説は、現代のものとして区別しておく。大宮八幡宮を「東京のへそ」と呼ぶのは宣伝の言葉であり、境内で「小さいおじさん」を見たという話は都市伝説に属する。いまの人がこの場所をどう語るかを示すが、歴史の証拠ではない。
この地域全体を覆う単一の在地の宇宙観はない。五つの話を貫く枠組みは、世俗的なものだ。記憶の地理――消えた行政の名が、残ったものにどう貼りつき続けるのか、を問うことである。
共鳴の場所
共鳴の場所:「塩硝蔵地跡」の説明板と、その脇の土手
一か所だけ訪ねる時間があるなら、明治大学和泉キャンパスの正門わきへ。
ここには、幕府の蔵、陸軍の火薬庫、大正十二年の震災、昭和五年の売却、昭和九年の校舎、そして隣に築地の死者を迎えた墓地が重なっている。これらを一人が決めたわけではない。同じ土手のそばに、一つずつ、置かれていった。
もう一つは、大宮八幡宮の北門外の「大宮遺跡」の碑である。発掘地は埋め戻され、出土品の一部は神社の清涼殿に展示されている。
結び――預けられた土地
五つの話を並べると、一つの形が見えてくる。和田堀は、外の必要のために、何度も貸し出された。都市が手放せず、手元にも置けないものを預かる土地として――聖なる台地、厄除けの道、火薬、死者、そして水と通勤客。村の人々は、労役や、参詣道の茶屋の主、旗本領の小作として現れるだけである。
この形は、あとから見えたものだ。どの時代の誰の計画でもない。大宮の墓は地元の集落のもので、外の権力のものではなく、東京の他の郊外にも似た施設はあった。和田堀に固有なのは、同じ一つの区画で、火薬の次に墓、その次に校舎と続いた順序であり、それが六年で消えた町の中で起きたことだ。
他人の必要のために預けられた土地は、どうなるのか。名が町より長く生きるとき、その名は何を預かっているのか。
世田谷区大原二丁目に、いまも「和田堀給水所」と呼ばれる水道施設がある。住所は世田谷区にあり、名は、もう存在しない町のものである。
水は、変わらず東京へ流れていく。
「火薬庫前」という文字は、いま、駅のどこにもない。
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現地への行き方
以下は観光情報および公的情報に基づく。出発前に最新の状況をご確認いただきたい。
- おすすめの順路: 京王線・井の頭線の明大前駅から、まず明治大学和泉キャンパス正門わきの「塩硝蔵地跡」の説明板へ。次に隣の築地本願寺和田堀廟所(永福一丁目8-1)へ歩き、最後に西永福駅へ。駅から大宮八幡宮(大宮二丁目3-1)までは徒歩約七分。
- 大宮八幡宮: 開門時間は6:00〜18:00(10月〜3月は17:00まで)と案内されている。北門を出た遊歩道は和田堀公園に続き、自由に入れる。「大宮遺跡」の碑は北門の外にある。
- 杉並区立郷土博物館: 大宮一丁目20-8、和田堀公園に隣接。開館は9:00〜17:00、大人の入館料は100円と案内されている(再確認を)。
- 妙法寺: 堀ノ内三丁目48-3。古い東京都の資料では、東高円寺駅から徒歩約15分、またはバス停「堀の内」から徒歩約3分。参詣道の説明板は和田三丁目10-1、まっすぐな水道道路は寺の西側近くから始まる。
- 墓地でのマナー: 和田堀廟所は現在も使われている墓地である。個人の墓には配慮を。開園時間は確認できていないので、事前に寺へ問い合わせたい。
- 宿泊: この行程に宿泊は必要ない。近くに泊まるなら、井の頭線沿線の渋谷や下北沢が便利である。
💡質疑応答
Q1 | 和田堀町は東京の行政区画として何年間存在し、なぜ現在の地図からその地名が消えたのか?(和田堀町の歴史的変遷と町村合併の考証)
答:和田堀町が独立した行政区画として存在したのは、わずか6年間であった。1889年に和田、堀之内、和泉、永福寺の4村が合併して和田堀内村となり、1926年7月1日に町制施行して「和田堀町」となった。しかし、1932年10月1日に東京市が周辺の82町村を編入した際、和田堀町は杉並、井荻、高井戶の各町とともに杉並区へと統合され、公式な行政地図からその町名が姿を消すことになった。
Q2 | 大宮八幡宮の創建伝説と境内で発見された遺跡にはどのような歴史的関連があるのか?(大宮遺跡と源頼義・源義家の伝説に関する文獻考証)
答:境内にある大宮遺跡からは弥生時代後期の方形周溝墓や遺物が出土しており、神社創建の遥か以前からこの地に有力者の集落が存在したことが証明されている。神社側の伝承では古代の聖域がそのまま信仰の基盤になったとされるが、弥生時代の墓地と1063年の神社創建の間を直接結ぶ連続した文献資料は存在しない。創建伝説自体は、源頼義・源義家が白雲を八流の旗に見立てたという故事に由来するものであり,史実としては1362年の熊野那智大社文書などによってその存在が確認されている。また、明治維新の神仏分離により付属寺院であった大宮寺は廃止されている。
Q3 | 明治大学和泉校舎の脇にある火薬庫跡や築地本願寺の墓地はどのようにして形成されたのか?(塩硝蔵跡、築地本願寺和田堀廟所、および軍事・宗教施設の変遷)
答:明治大学和泉校舎の土手にある「塩硝蔵地跡」の解説板は、かつてこの地が幕府および陸軍の火薬貯蔵庫であったことを示している。さらに、1923年の関東大震災後の都市計画と区画整理に伴い、築地本願寺にあった広大な墓地が移転を余儀なくされ、この和田堀の地に築地本願寺和田堀廟所が形成された。軍事施設、墓地、そして近代の大学キャンパスが同一の土地に重なる景観は、東京の防衛、宗教空間の移動、そして急速な都市化が交錯した歴史の足跡を物語っている。
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参考文献とさらに読む
第一層:一次資料と制度的起源
- Suginami Ward, Ward Overview 2025 (区勢概要) — 1926 renaming to Wadahori; 1932 merger; population at founding.
- Suginami Ward, Ward Overview 2013 — Wadahori scenic district designated January 1933.
- Suginami Ward, paper on the place-name Izumi (citing Mori Yasuji, Suginami Fudoki) — four villages, Wadahorinouchi, Uchida estate.
- Suginami Ward heritage sign: Site of the saltpetre store (塩硝蔵地跡)
- Suginami Ward heritage sign: Tsukiji Hongwanji Wadahori Cemetery
- Suginami Ward heritage sign: Ōmiya Hachimangu
- Suginami Ward heritage sign: Myōhōji
- Suginami Ward heritage sign: Myōhōji pilgrimage road (Horinouchi-michi)
- Suginami Local Museum, historical materials (1451 stele; 1698 statue transfer)
- Suginami Ward, designated tangible cultural properties — Eifukuji kōshin tower; former Ōmiya-ji stone pagoda.
- Tokyo Metropolitan Waterworks history: First Waterworks Extension
- Setagaya Ward, Wadahori Supply Station upper-use concept (2022)
- Tokyo Metropolitan Government, Wadahori Park Management Plan (March 2025)
- Tokyo Metropolitan Government, Wadahori Park plan (pond; ancient sites)
- Meiji University Archives, "Izumi Campus history" (The Quarterly Meiji)
- Edo-Tokyo Museum Digital Archives: 1931 Toyotama towns status survey, Ōkubo volume
- Edo-Tokyo Museum Digital Archives: same series, Nakano volume
- Chūō City, Tsukudajima founder's memorial (Tsukiji and Tsukudajima origins)
- Chūō City virtual museum: bombing of 24–25 May 1945
第2層:二次学術文献
- Takemura Masayuki, "Traces of the Great Kantō Earthquake in Tokyo" (Seismological Society of Japan, Historical Earthquakes 26)
- Suginami Board of Education, Suginami no chimei (Cultural Properties Series 19), excerpt via Suginami-gaku Club
- Kujō Takeko and the Great Kantō Earthquake (Kindai Nihon Kenkyū 40, 2023), bibliographic record — research lead only.
- Suginami-gaku Club, "Wartime memories of Suginami" (2025)
第3層:経絡の補修
- Wikipedia (ja): 和田堀町 — 1930 population; town office; 1931 survey reference.
- Wikipedia (ja): 杉並区の町名 — village-to-town name table.
- Wikipedia (ja): 大宮 (杉並区) — Ōmiya as a sub-district of Wada.
- Transcription of the Ōmiya Hachimangu and ward signboards (Tetsudo-ch)
- Transcription of the Ōmiya site signboard (Tetsudo-ch)
- Transcription of the Tokyo natural-monument sign for the Ōmiya grove (Tetsudo-ch)
- Tabi-mag: Ōmiya Hachimangu
- Tabi-mag: Wadahori Park
- GLTJP: Ōmiya Hachimangu ("navel of Tokyo" branding)
- Bestcarweb: Ōmiya Hachimangu column ("little old men" lore)
- Town Archives (smtrc): Kōenji area, Myōhōji and Hachiman
- Re-house column: Meidaimae
- Sanpo no Tatsujin: the powder store and Meidaimae station names
- Grave-visiting record: Higuchi Ichiyō
- Tabi-mag: Old Nogata water tower and the Arakawa-Tama Waterworks Union
- Tabi-mag: Arakawa-Tama waterworks road
- Tabi-mag: Inokashira-dōri
- Family war memoir (Takahashi Haruki), Nakano City peace archive
- Town Archives (smtrc): Keiō Inokashira Line history
- Traffic News: the Inokashira line and the Meidaimae remnant
- Tetsudo-ch: Eifukuchō Station
- Mapple: Nishi-Eifuku Station area (Ōmiya Hachimangu, Wadahori Park, Local Museum)
- Tokyo Metropolitan Government leaflet: Horinouchi's Yakuyoke Soshi, Myōhōji
- Tabi-mag: Zenpukuji River Greenway (cherry trees)
- Gurunavi restaurant page mentioning Myōhōji's iron gate attribution — attribution claim only; verify.
- Suginami Ward heritage sign: Site of the Igusa town office (井荻町役場前) — Tier 1 municipal sign, listed here only to keep numbering; supports the Igusa-Ogikubo name compound.
- Tabi-mag: Tsukiji Hongwanji






